コヴェント・ガーデンの思い出 テムズ南岸の名指揮者たち
テムズ南岸の名指揮者たち ・ 第10話

ラファエル・イェロニュム・クベリーク
(Rafael Jeroným Kubelík)

1914年6月29日コリーン近郊ビーホリー生、1996年8月11日没(没地不明)

ロンドン交響楽団

・1977年11月27日席 1-S-21/22値段 £4.40
 BrahmsSymphony No.3 in F major,Op.90
 BrahmsSymphony No.4 in E minor,Op.98
 
・1977年12月4日席 1-M-12/13値段 £4.40
 MozartSymphony No.38 in D major,K.504‘Prague’
 BrucknerSymphony No.9 in D minor

 細部の正確さ(英語で“spit-and-polish precision”という表現があります)とは対極にある音楽創り。 それが、ロンドン響が基本的に持つ機能性と力感とあいまって、生き生きと柄の大きな音楽でした。

 ブラームスも、柄の大きな、一聴すると素朴とも野放図とも言えるものです。
 第3番冒頭の管の上昇音型を聴くと、まさにその感が強かった。しかしその音型がその後に 頻繁に出現し、それが柔らかな主題を絡むさまは、その絡みにこそ「美」があると 主張しているようでした。そして全体に低音に比重をかけながら、旋律線を息長く歌わせる。 更には、管のソロを浮き上がらせて、まだ熱の残っているような燻銀の美しを持つ弦とあわせて、 熱っぽく残る三つの楽章をも歌いあげる。第2楽章アンダンテの牧歌、第3楽章ポコ・アレグレットの チェロで始まるロマンチックな旋律も、単なる美旋律よりはなにがしか孤高の憂愁の歌。 第4楽章の昂揚と沈潜の交錯と、弱音で終わる直前の弦のピチカートの意味合いの深さ。
 第4番は、既に書いた チェリビダッケ とはかなり異なります。音量を抑え気味にし、 音程とコードを大切にし、どの旋律にも密やかな意味を裏打ちして、決してテンポを煽ったり フォルテッシモを響かせない チェリビダッケ と異なり、第3番で感じた特性を表面に出して、 大きなダイナミズムとやや早めのテンポの中に大筋を通すような演奏でした。 同じオーケストラで同じ曲を聴いても、指揮者によってかくも異なった曲の側面を聴かせてくれるのか、 それがとても面白かったのでした。勿論、いずれもブラームスだと私は思います。

 日が変ってのまずモーツァルト。これも力強いモーツァルトでした。美音に敢えてこだわらずに、 スピード感でグイグイ勧めるさまは、一種の快感があります。全体にテンポもかなり早めだし、 最終楽章のシンコペーションのような進行も大いに利かせましたが、ここはやや大味だったと 思いました。でも、かなりの拍手ではありました。
 次いでのブルックナーは、これは壮観でした。丁度カラヤンの1975年盤を手に入れた直後でしたが、 全体像はかなり異なります。陳腐な言い方ですが、無骨とも言える演奏です。 オーケストラの特性が異なることに加えて録音と実演の差と言うこと以上に、指揮者のアプローチの 差でしょう。ハーモニーのモザイクや楽節ごとに改まるような表情等を、大掴みに力を籠めて描き分ける。 全体の流れや旋律の重視よりは、構造の中にある何物かを確信をもって抉り出すような指揮ぶりです。 それに応えるロンドン響の重厚とも言える音質、特に金管群の底力の凄まじさは特筆もの。 中でもトランペットとブレンドしながら分厚く響くトランペット以外の金管。新たにロンドン響と バーミンガム市響の為に制作したという新しいテナー・チューバの内声の深みは、重層感に重点を 置いたようです。すべてに於いて、今までに聴いたことの無い音響でした。 敢えて言えば、 バイエルンの山並みの中に聳える高峰を仰ぐような、そんな感慨を催させる音楽でした。

 その後の クベリーク は、チェコフィルを指揮しての、1991年11月2日の 『我が祖国』全曲演奏(サントリーホール)のみ。もっと聴きたかった指揮者の一人です。

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