セルジュ・チェリビダッケ( Sergiu Celibidache )
1996年8月14日パリ没
ロンドン交響楽団
・1978年4月9日 | 席 1-N-13 | 値段 £4.40 |
Stravinsky | Three Dances from‘Petrushka’ | |
Debussy | Iberia | |
Brahms | Symphony No.4 in E minor |
ニューヨーク支店から短期出張で来ていた同期生が音楽好きということで、日曜のマチネでもあるので、
家内には諦めさせて切符を回して連れて行ったら、終演後の彼の第一声は、「音が小さい。
フィラデルフィアなんか音がバンバン飛んで来るぜ」。
(序)にも書いたこのホールの特性に彼が戸惑ったのも一因でしょうが、それよりも重要なことは、
チェリビダッケ の音楽の創り方の相違でしょう。
決して音量・音圧で訴求せず、土台としたピアニッシモからどれだけ離れたところに
フォルテッシモを持ってくるかの、えも言われぬ微妙繊細とも言えるダイナミズムの捉え方、
全体にやや遅めとも言えるテンポでじっくりと押してくるチェリビダッケ。
どのような芸術家でも「彼ならでは」を持っていますが、 チェリビダッケ には
特にそれを感じたのでした。
そんなところがアメリカの土壌の上に成長した オーマンディ/フィラデルフィア という大木と、
ヨーロッパの土壌の上に成長した鬱蒼とした林の中で他とは異なった姿で特異な姿で屹立する
チェリビダッケ の音楽との、相違そのものだと彼の印象を聞いて強く思ったのでした。
それほど特異でありながら、演奏にせするや、即座に大きく首肯しながら受容し得る
チェリビダッケ ならではの音楽だと痛切に感じたのでした。
冒頭のストラヴィンスキーは、民謡を基調としたことがすぐにわかるような、何時か何処かで
聞いたような旋律が奏せられます。ユーモラスで素朴で優しくて懐かしいロシアの歌です。
Financial Times 紙の Dominic Gill 氏が、この演奏を評して“grand hors d'oeuvre”
と書いていますが、大いに賛成です。
次いで魚料理にあたるドビュッシー。これは音のパレットでした。 いろんなコードを微細に響かせつつ、その連続するコードが分離と融合を繰り替えしつつ音楽全体を 構成する。そしてその構成に、これも微細ともいえる揺らぐリズムで別の角度から表情を付ける。 これこそ音のパレット、又は白いテーブルの上に広げられた宝石の粒また粒でした。
ストラヴィンスキーとドビュッシーを鮮やかに描き分けた後の最後の肉料理に当たるのがブラームス。
雄渾ではない、重厚でもない、輝くのでもなく、迸るのでもない、そして語り過ぎない。
しかし、そこにあるのは、詩情と寂寥、明晰と抑制から導き出された、秋の夕暮れの中を逍遙する
功なり名とげた一人の人物の後ろ姿ではないでしょうか。
音量を抑え気味にし、音程とコードを大切にし、どの旋律にも密やかな意味を裏打ちして、
決してテンポを煽ったりフォルテッシモを響かせることなく終始しながら、第四楽章のフルートの
ソロからトロンボーンのアッコードに至った時には、私は「人生とは」と語りかけられている
ようにさえ思えて、胸が締めつけられたのでした。
それにしても素晴らしいのがロンドン響の高度な機能性です。
在ロンドンの大オーケストラ中最高のものでした。
翌々日のヴェルディ/ヒンデミット/プロコフィエフの切符を持って居ながら 残業で行けなくなったのは、今思い返しても痛恨の極みです。 しかし、帰国後に手兵のミュンヘンフィルを15回聴けたのは望外の幸せでした。